あまりに故人の趣味ではないお別れの会

2015/07/06

葬儀は誰のためのものでしょうか。

 葬儀のしきたりも大きく変わり、故人の趣味に併せて様々な演出がされることも多くなってきました。送り出す遺族も、送り出される故人も「その人らしい、いい葬儀にしたい」という思いは同じでしょう。

 

生前の彼はロック好きな硬派な人でした

生前の彼はロック好きな硬派な人でした

もう随分前のことですが、大学時代の友人が喉頭がんで亡くなりました。彼は忌野清志郎などの硬派なロックやブルースが大好きで、自分でもエレキギターを弾きました。彼とは飲み屋でよく音楽談義をしたものです。飾り気のない面倒見の良い男でもありました。でも毎晩浴びるほど豪快に飲み、ヘビースモーカーでした。だから友人からメールで「俺、癌になっちゃったぜ」という連絡が来た時にも、正直そんなに驚いたわけではありません。

「あー、ちょっと早いけど、奴も遂に癌か」と会社のパソコンに来たそのメールを読んで、心の中でつぶやきました。いや、ひょっとしたら声に出していたかもしれません。

 

闘病生活はちょうど1年弱でした 

それまでは原因不明と思われていた、喉の激しい痛み、続く微熱。地元のかかりつけの医院でも、さすがにその症状が長引いた為に癌の可能性が高いと判断され、精密検査をしたほうがいいということになったようです。

癌検の初診で、ステージ4と診断され、そのまま入院することとなりました。そして、その二日後には喉頭摘出手術が行われ、彼は声を失うこととなりました。しかし、この言い方は正確ではありません。声帯を切除するので、その時点で声を失ってしまうのは事実ですが、実は、訓練で声を取り戻すことはできるのです。とは言え、健常者の声質とは違うものですが…。

 

 

前向きの彼は自分が癌を克服できると信じていました・・・ 

彼は癌を克服するという強い意志をもっていたので、自分の死を信じていませんでした。そのためか、彼には妻子がいたのですが、自分の死後についての話はしなかったようです。私は友人として最後まで癌と闘い抜いた彼を誇りに思います。もちろん結果的には癌には勝てなかったのですが。しかし、彼には母と妻と中学生の息子がいました。残された彼ら遺族を思うとちょっと複雑な想いがあることも事実です。やはりエンディングノートを書いておくべきだったのではないかと。

 

彼が見ていたら、ちょっと不機嫌になるのではと思えたお別れ会 

友人は51歳の夏の終わりに亡くなりました。その彼とは以前(以前といっても、お互いが30代の頃ですから20年以上昔ですが)、やはり酒場で、伊丹十三監督の「お葬式」という映画の話をしていて、その流れで自分たちのお葬式はどうしたいかという話題になりました。彼は、「人前結婚式の反対みたいなシンプルで飾り気のないやつだな、本当に俺を思ってくれる人間だけ集まってくれればいいんだよ、それにブルースが流れていれば最高だよ。うん、それで決まりだ」と、赤ら顔で教えてくれました。 

お別れの会は、葬儀ホールで行われました。もちろんしめやかではあるのですが、ちょっと装飾が多いホールで彼らしくないかなと、ふっと思ってしまいました。弔辞もたくさん読まれました。もちろんこれ自体は素晴らしいことで彼の人徳が成せる業だということは、私ももちろんわかっているのです。でもちょっと時間が長かったのではないかと感じました。

とはいえ、これなら彼も「しょうがねえなあ、みんな」と苦笑いしながら喜んでいる姿が目に浮かびます。 

 

しかしながら、音楽葬というほどではありませんが、会の合間、合間に音楽が流れていました。しかし、これはちょっと、もしも彼が見ていたら不機嫌になるのではないかと思われるものでした。音楽を奏でるのはエレクトーンで女性が弾いていました。「アメイジング・グレイス」「精霊流し」「G線上のアリア」などが演奏されていました。

葬儀場のエレクトーン私自身は、こういった選曲が嫌いではありません、というより好きです。ただ彼が好んで聞いていたロックやブルースとはかけ離れていたし、彼にはエレクトーンもちょっと似合わない感じがしました。でももちろん、こういった会の形を選んだ遺族を批判する気持ちは全くありません。悲しみやお疲れや、忙しさでそこまで考えられる余裕なんてないのです。これは自分自身の経験からも本当にそう思います。

 

エンディングノートは実は遺族のために必要 

後日、亡くなった彼の奥さんと話す機会がありました。私が何も言う前から、彼女は、「後から、考えるとお別れの会の音楽、ちゃんと主人が好きだった曲を選べばよかったと後悔しているんですよ。きっと○○さんも気になったでしょう、あれじゃ主人が怒りだすって」と悲しそうな顔で、か弱く微笑まれました。

自分が自分らしく終わるためにエンディングノートを書くべきだと思っていた私ですが、この友人の死をきっかけに、考えが変わりました。自分のためではなく、残された家族に必要以上の悲しみや後悔を与えないためにこそ必要なのだと。

エンディングノート

この記事を書いたライター

久保田 雄城
久保田 雄城

「終活情報を伝える意味について想うこと」

私の母は、今年87歳だが元気に一人暮らしをしている。とはいえ87歳という年齢は当然若くはない。来るべき死に向けて準備をする必要であることは間違いない。これは母自身というより、むしろ息子である私の問題だ。
つねづね私は「よく生きることは、よく死ぬことだ」と考えている。終活とはまさにその「よく死ぬ」為の活動だろう。そのような意味において、私が伝える終活情報は皆様と同じように私もまた知りたい情報なのである。