無縁社会がもたらす光と影

2015/08/11

「無縁社会」という言葉が一時期多く語られたことがある。
この言葉自体は、NHKが2010年に制作したドキュメンタリー「無縁社会〜"無縁死"3万2千人の衝撃〜」の放送に伴って生まれた言葉だ。
何となくイメージはつくだろうが、厳密にはどういう言葉なのだろうか。

地縁・血縁・社縁の薄れ

かつて地縁(地域同士でのつながり)、血縁(親族同士でのつながり)は日本社会の基盤となっていた。
しかし近年では、こういった構造は変わり、地縁も血縁も薄れつつある、もしかするとすでに無くなった部分もあるかもしれない。

地縁が薄れた大きな理由は、また近所づきあいの煩わしさを嫌う傾向のある都市部への人の集中と、全国的に人口が流動的になったこと、である。
そして血縁も、大家族から核家族への遷移によって薄れていった。

また、会社との「社縁」というのも無縁化しつつある。近年の終身雇用制の崩壊によって、多くの人にとってのつながりの一つであった「社縁」もなくなりつつあるのだ。

孤独死・無縁死の背景

これらの結果、他人とのつながりを持たない「無縁者」がどんどん増加している。

この社会の様子を表した言葉が「無縁社会」だ。2010年の放送当時から5年が経つが、現状の社会を見るに、日本の「無縁社会化」は一向に留まる気配がない、と言えよう。「無縁社会」がもたらす光と影

無縁社会のメリット

地方から都市部に移り、そこで永らく生活をしている人々は大きく2種類に分類できる。
一つ、故郷での人とのつながりを暖かいものと回顧し、そこにノスタルジーを感じ続ける人々。もう一つ、故郷での人とのつながりに、煩わしい面も強く感じ、たまに帰るくらいは良しとするも、都市部での比較的楽な人間関係を望む人々。

後者の人々にとっては、人間関係が簡素化された自分の周りの環境は心地良く、人生の自由度を高めるものである。
「無縁」とまではいかないまでも、ある意味、彼らは「無縁社会」のプラス面を享受していることになる。

無縁社会のデメリット

しかし日本社会から「縁」が薄れることにはデメリットの方が大きい、というのが多数の人間の見方だ。

先ほど述べたNHKのドキュメンタリー番組のタイトルの中に「無縁死3万2千人」とあった。
これは「行き倒れ死者」や「自殺と見られるが身元不明の死者」、「孤独死」などの今まで統計上カテゴライズされなかった「死」が年間3万2千件ほどもあるという意味だ。

こういった無縁死は身元不明、あるいは身寄りのない人々にのみの話ではない。
むしろ身元が判明しているのに、家族や親族が遺骨の引き取りを拒否するケースの方が多いという。
その結果、自治体の無縁墓に埋葬されるといったこともあるようだ。

考えないといけないのは、死後どうすればいいか、という問題だけではない。

地縁、血縁、社縁などの人とのつながりを持たない人々は「孤独」だ。
孤独は人を追い詰める。そして周りに人がいないのだから、その人が追い詰められていること、孤独であることに誰も気付かない。
あるいは気付いても働きかけようとしない。
これだけでもその人の精神を蝕むのに十分な条件であるが、収入が少ない、あるいは無い場合にはさらに絶望的だ。

「高齢者の孤独死、あるいは"無縁死"」という言葉にはここまでの闇がある。
「行政がなんとかするべきだ」と言って責任を押し付けるのは簡単だが、そのように「自分と関係ないのだから」という精神がこのような状況、社会を生んだことを忘れてはならない。

この記事を書いたライター

雨輝
雨輝

生き死の問題は、人生の長い時間は考えないものです。メメント・モリ(死を想え)といった言葉があるように、死について真剣に考えることで、生きている意味を見出そうとし、有意義な生活が送れると思っております。
今この瞬間も死に直面している人もそうでない人もいますが、死は誰もが通過する道です。万人に共通する「死」というテーマで執筆することによって、多くの方々に「生」を実感してもらえればと願っております。