暮らしの中のお葬式:佐渡 【前編】

2015/09/02

暮らしの中で見聞きしたお葬式:佐渡 【前編】~通夜まで古い葬送文化が色濃く残る佐渡の風景

佐渡の風土が培った葬儀の営み

私が育った佐渡ヶ島、皆さんがご存知の通り日本海に浮かぶ島です。訪ね来る人には何とも言えないなつかしさや侘しさをも感じさせる島でもあり、古くからの伝統や儀式が普通に残っています。
島という土地柄と古くから「遠流の地」と定められてきた歴史が「入ってきても出ていくところがない」といった人々の意識を育てました。そういった所が“佐渡らしさ”を残しているゆえんなのだと、そう私は理解しています。

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30年前の佐渡独特の葬式

私の祖母が今から30年前になくなりました。日航機墜落事故があった1985年、昭和60年8月12日。その年もとても暑い夏の盛りの頃でした。
佐渡では「亡くなったら一晩、おかんなん(置かなければいけない)」と言って火葬前の24時間自宅待機があります。亡くなった祖母が「寂しくないように、迷わないように」と、枕元で一晩中線香を焚きろうそくを点けて家族と枕元に座っていた記憶があります。
TVではあの日航機の墜落事故のニュースが一晩中流れていました。

佐渡の葬儀の流れ

当時も今も共通の、佐渡での葬儀全体の流れをお話しします。

本土では、「お通夜→葬式→告別式→出棺→火葬→納骨」の順で進んでいくのが一般的ですが、佐渡では「1日目:念仏(お通夜)→2日目:出棺→火葬←念仏、3日目:葬式(告別式)→納骨→お寺→念仏」と先に火葬してから葬式を行うのが通常です

よほどのことがないと火葬が先なので、「ほときさん」(“仏様”が訛っての呼び方だと思いますが)とお会いしたい会葬者の方には24時間以内に来ていただかないとなりません。故人の本土のお知り合いや最近本土からやってきて間もない方に連絡する場合、あとから「最後にお顔をみてお別れを告げたかった」とならないよう、この点に気を付けます。

佐渡の枕飾り

佐渡に限らないことですが、現代のようにセレモニーホールがない当時は、通夜・葬儀は自宅で行うものでした。

家自体も、畳をすべて同方向に敷き変えて(流し敷きといいます)、障子・ふすまを取り外すと一つの大広間になるように造られており、通夜も葬式も自宅で執り行いました。
座敷と呼ばれる仏間にお布団を引いてご遺体の頭を北に向け、24時間ご安置します。その際、故人が寂しくないようにと枕元にろうそくを灯しておきます。布団は本人が使用していた布団を使い、薄い掛け布団を上下逆さにして掛けました。布団のお腹の上あたりに「草刈り鎌」を置きます。

この「草刈り鎌」は一般的な葬儀しきたりである「守り刀」に由来しているものかと思いますが、親類のおばあさんから「鎌をもってこい!」と言われて置いていただけなので、私には本当の意味は正直わかりません。農家には刀はありませんでしたから、普段使いの包丁以外の刃物として「鎌」を置いたのかもしれません。

仏壇の前にあった経机を故人の頭の上側において、ろうそく台、お線香、しきびの枝を1本立てました。しきびは、仏事には欠かせない植物。魔除けの力や生命力があるとも聞きました。コップにお水を入れてお供えします。佐渡の枕飾り

更に、佐渡はコップとやかん、桶が必需品です。これはろうそくの点灯と同じで、「お水は欠かさず、何度も替えてあげる」のが佐渡独特の慣わしのようで“ほときさん”の喉が渇かないよう一晩中「お水替え」をしてあげます。何度繰り返してもかまいませんし、枕元にいらした方が次々に繰り返してもかまいません。これを通夜も葬儀の間も続けます。

それから、生前故人が使っていたお茶碗にご飯を丸く盛ります。箸を1本だけ垂直に立てて置かれていました。これが一般的に言われる「枕飯」と呼ばれるものかと思われます。このお茶碗は、故人が火葬場に向かって家から運び出される、一般的には「出棺」と呼ばれるシーンの際に、玄関で思いきり地面にたたきつけて割ります。
中に入っているご飯は、棺の中に入れて一緒に燃やすのが本土では一般的だったようですが、佐渡では海に流しました。

出棺後は、座敷の仏間にかけてあった掛軸(天照大神)をはずし、家じゅうの神棚に白い紙を貼り、祀られている神様がけがれない様にしていました。 

佐渡の家制度と5人組

枕飾りがすむと、部落の総代理さん(「そーれさん」と発音します。今風にいうと部落長、部落の代表です)が、部落内にいくつかある組のそれぞれの組の頭と、部落に住む主親類(おもしんるい)に連絡を入れて、亡くなったことを伝えます。自分の部落以外の人は「他所(たしょ)」といって他所は「主親類(おもしんるい)」のみに知らせます。

葬儀は主親類(おもしんるい)、親類(しんるい)が中心になって行います。主親類(おもしんるい)とは、お嫁さんに出したりもらったりした関係です。ちなみに、そのお嫁さんが亡くなると縁が切れて通常の親類になります。お嫁さんが亡くなっても五十年忌まで親類です。

縁類(えんるい)という関係もありました。離婚などによって主親類関係が切れた場合や、他にも田畑の水や漁の争いなどで意図的に(主)親類関係が切られた場合の関係を指す呼称です。

また、佐渡には5人組(家単位)というのがあり、通夜・葬儀の2日間、各家から2人手伝いに来てくれます。5人組の仕事のひとつは、葬儀にかかる道具をお寺や部落のお堂から運んでくる事。(ちなみに、葬式の道具は部落でお金を出し合って一式揃えてあるようです。おだんごを乗せる台や祭壇の板、ろうそく立て、鐘など、さまざまなものが揃っていました)

他にも5人組の中の男性(「男んもん」と呼ばれます)は、墓の掃除から、冬は雪かきと墓堀まで、枕飾りの小道具から葬儀関連の小道具づくり、果ては納骨の際のご遺骨を墓場まで持っての先導もしてくれます。地域によっては竹に提灯ぶらさげ、のぼりつけも男んもんの仕事で、他方、女んもんは枕団子づくりと食事作り等をしてくれます。

かつて江戸時代には「連帯責任・相互監察・相互扶助」という民衆支配の為の制度でもあった5人組ですが、喪主さんにとっては葬儀の際の心強いサポート役でとなります。お互いに支え合う仲間「相互援助」というよい面が残った関係だと感じます。

佐渡の念仏

佐渡では「お通夜」のことを「念仏」といいます。部落で人が亡くなると「今日は念仏を申しにいかんなん」=(ご詠歌を歌いに行くこと)と言います。

以下は30年前当時では一般的であった佐渡のお通夜です。

通夜の席では、「宵の念仏」が午後7時頃から始まります。家族、親類、部落の人達、部落の外から通夜に訪れた一般会葬者の方々による念仏=ご詠歌と呼ばれるコーラスが50分程続きます。この念仏のコーラスが唱えられている間は、順々と焼香を行う時間でもあります。
その後、煮物、漬物、郷土料理の「いごねり」といった地元の食材を使った精進料理が振る舞われ、女性にはビンに入ったソフトドリンク、男性陣にはビール、お酒などが出されます。これが一般的にいう「通夜ぶるまい」になります。
その後、9時前後で一旦解散となります。

ここからがかつて「佐渡の念仏」として知られた風習のさらに独特な部分になります。
2回目の念仏コーラスが、夜中の12時頃から始まります。これが「夜中の念仏」です。終わるのは夜中の1時頃。更に「夜明けの念仏」が午前3時頃からスタートします。そう、一晩に3回念仏のコーラスが行われていたのでした。
ちなみに、2回目以後は部落の人や残った親類、家族のみで行います。

また、通夜全体を通して、お坊さまはいらっしゃいません。あくまで部落の人達が中心になってそこに家族や親類、外部から来た会葬者が加わって「念仏」を唱え、死者を弔ったのです。

こういった「念仏を参加者全員で一晩に3度唱える」という風習は、さすがに現代の佐渡でも残されている地区は無くなりました。しかし、お坊さまの読経の他に、部落の人達で「念仏」を合唱するといったことは今でもよく行われており、他の地域に比べると古い葬儀の風習がまだまだ色濃く根付いたままの地域といえるでしょう。

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この記事を書いたライター

かずりんこ
かずりんこ

「人は、いつかは死ぬもの…」そう思ってはおりました。しかし、その「いつか」は遠い先のこと…といった感覚でした。
それが、すぐ身近に感じられるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災の経験、更には同じ年の4月、普段通りの生活の中で突然眠るように父が亡くなったことがきっかけでした。父本人も命の尽きるその瞬間まで、まさか自分の命がそこで終わるとは分かっていなかったと思います。

以後、よく「死」を考えるようになりました。
自分の終演を、元気な今から、そして自分なりに遠くから、意識のどこかで見ていたい。その日を納得して迎えるために…。
これを「終活」というのでしょうか。