「戒名代は400万円です」ご住職の言葉にあぜん、ショックだったお葬式の体験談【前編】

2015/12/21

家族が亡くなるのは、それだけでも大ショックです。
でも、悲しんでばかりもいられません。葬儀など死者の供養も大切です。その供養で、とんでもない事態が生じることもあるのです。

 

泣いてばかりもいられません

K工業株式会社の社長K氏が亡くなりました。

進行性の大腸癌で、癌を発見した時は、すでに肺にも肝臓にも転移し、腹膜全体に癌細胞が散らばっている状態(腹膜播種)でした。摘出手術に化学療法と、手を尽くしましたが、癌と診断されて1年後に、K氏は他界しました。

残された遺族、K夫人と息子夫婦、娘は、ある程度覚悟をしていましたが、やはり大きな衝撃を受けました。

K工業は、K氏の父親が創立した中小企業です。優秀なエンジニアだった2代目社長の死は、会社にとっては死活問題です。役員達は、会社の存続に知恵を絞りました。

K夫人や息子達も、悲しんでばかりもいられません。役員達と相談し、葬儀社に依頼して、葬儀の段取りを決めました。

まず、親族など親しい人々のみで密葬し、後日、社葬を行うことにしました。

法要は、K家の菩提寺であるT寺の住職にお願いしました。

葬儀費用は高額でした。特にT寺へのお布施がかなりの金額でした。しかし、先代社長の葬儀を経験していましたから、K夫人も役員達も驚くことはありません。その程度の金額は、予想していたのです。

ところが、「戒名代」には、びっくり仰天、遺族全員の目が点になりました。

T寺の住職は「戒名代」として「400万円」を請求したのです。

 

戒名代は想定外

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「戒名」とは、死者につける名前です。

○○居士とか○○信女とかいうものです。

「戒名代」は、戒名のランク・宗派・寺格によって金額がちがってきます。

△△院○○居士など院号がつき、長くなるほどランクが上がり、金額も高くなります。また、お寺の格が高ければ、戒名代も高くなります。

戒名代は、ふつう30万円から100万円くらいですが、お寺によっては、100万円以上ということもあります。

T 寺は東京でも有数の格式高いお寺ですから、お布施などもふつうよりは高くなります。

15年前に亡くなったK氏の父君の葬儀費用もかなり高額でしたし、戒名代は100万円でした。K夫人も、その程度は、ちゃんと予想していたのです。

しかし、T寺の住職は「15年経つと、諸事値上がり致します」と言います。

「15年で4倍になるのか?!」と、息子はカンカンに怒りましたが、どうすることもできません。

K氏のような中小企業経営者は、私産の大半を事業につぎ込んでいます。しかも、1年近い闘病で、預金を使い果たし、葬儀費用を確保するのがやっとでした。400万円の想定外費用を捻出するのは、容易なことではありません。

 

腕時計をちらちら

密葬とはいえ、K氏の親族や親友達、会社の従業員達などの他、取引先の人達まで参列して、思いがけず盛大な通夜・葬儀になりました。

T寺の住職は5人の僧侶を引き連れて葬儀を執り行いました。

密葬の通夜、読経が始まるとすぐ、住職はちらちらと腕時計を見ています。

「なぜ時計を気にするのだろう?」

K氏の息子が首をひねる間もなく、焼香になりました。あまりにも短い読経に、息子もK夫人も唖然としました。

家族・親族の焼香が終わり、一般焼香が始まった時には、住職は読経を終えて、澄まして座っているだけです。

「お通夜だし、御参列の方も多かったから、読経を短くなさったのよ」

K夫人は怒る息子をなだめました。

定められた時間内で通夜の法要を行うのですから、僧侶も時間を気にして当然なのでしょう。

翌日の葬儀でも、住職は腕時計を見ながら読経し、時間内にすべてを済ませました。

社葬当日、住職は金襴の袈裟を着け、多数の僧侶を率いてT寺本堂に登場しました。広々とした本堂は豪華で、社葬を執り行うには最適に見えます。

葬儀委員長は取引先の大企業の社長が務め、参列者も多数集まりました。中小企業の社葬としては立派すぎるほどでした。

しかし・・・住職の読経が、どうにも気になるのです。

葬儀社は弔辞や弔電を読む時間を考慮し、焼香時間も長めにとっていました。

読経も、密葬の時に比べると長く、朗々と響きました。でも、腕時計をちらちら見ながら読経することに変わりはありません。

おかげで大勢の参列者の焼香も予定通り行われ、社葬は無事に行われました。

しかし、遺族の気持ちは落ち着きません。

「腕時計をちらちら見ながらの読経」は、あまりにも計算されつくした事務的な態度に思われます。本当に死者を弔うことになるのでしょうか?

高い戒名代も、高額なお布施も、死者の供養になるならば、遺族は納得します。遺族の悲しみも和らげることができるのです。

葬儀は、死者の供養であると同時に、遺族の心を慰めるためのものです。

通夜・葬式・野辺送りという一連の儀式を行うことで、遺族は死者と決別し、心を整理していきます。葬儀によって、愛する者の死を受け入れるのです。

K夫人も息子夫婦も娘も、失望感と悲しみにうちひしがれました。

住職の態度には「死者を弔う心」が感じられないのです。K氏の魂が安らげるとは思えないのです。

「私が死んでも、絶対にT寺で葬式をしないでちょうだいよ」

社葬の後、K夫人は息子に宣言しました。息子は憮然としながらも、大きくうなずきました。

何も知らないT寺の住職は、今日も腕時計を横目に見て、読経しています。

この記事を書いたライター

潮美 瑶
潮美 瑶

人生とは「死に至る病」と申します。
生まれ落ちた時からゴールがわかっています。50歳を過ぎる頃から、ゴールが身近に感じられるようになります。
許されるものならば、できるだけ平穏にゴールを迎えたいと思っております。穏やかに、安らかに、悔いもなく、人生の幕を下ろせたら、どんなに幸せなことでしょう。見送る遺族の悲しみも、多少薄らぐことと思います。
終活情報を伝えることで、少しでも平穏にゴールを迎える役に立つならば、私自身にも大きな意味があります。