歴史に残った辞世の句【戦国武将編】

2016/02/15

日本独自の文学であり死生観でもある「辞世の句」。
この世に別れを告げる際に歌で心をあらわすというのは、現代に生きる我々からすると圧倒されるようでもあります。

古く、辞世を遺した人たちはどのようなに生き、どのような心を抱いて死んでいったのでしょうか。

「歴史に残った辞世の句」シリーズ第一弾は「戦国武将」編です。

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辞世の句:戦国武将編

豊臣秀吉

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戦国三英傑のひとり。

下層階級に生まれ、当初は今川家につかえるも、出奔したのち織田信長に仕官し次第に頭角を現す。
信長が明智光秀に討たれると「中国大返し」により京に戻り、山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫三法師を擁し織田家内の権力争いに勝利し信長の跡継ぎとしての地位を獲得した。
大阪城を築き、公家の最高位である「関白」の位につき、全国の代表を臣従させ信長以来ふたりめの天下人となった。

その後、明の征服を目指し朝鮮に出兵するも、道半ばにて病没。その豊臣家は徳川家によって滅ぼされた。

【豊臣秀吉の辞世】

『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』

訳:露のようにこの世に生まれ、また露のようにはかなく消え去っていく我が身であることだ。大阪城(浪速)で過ごした栄華の日々も、夢のなかの夢のようにはかないものだった。

 

徳川家康

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戦国三英傑のひとり。

弱小な地方豪族である松平氏に生まれる。
幼少期は人質として各大名家を転々とし、忍従の日々を過ごす。

今川家の人質であった1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、その混乱に乗じ岡崎城を獲り信長と同盟を組む。その後は三河・遠江を中心に版図を広げ、本能寺の変で信長が打たれると空白地帯となっていた甲斐・信濃を獲りさらに勢力を広げる。

その後の豊臣家の天下では秀吉に臣従の礼をとるも、秀吉の病没後は一転して豊臣家と戦端を開き、「関ケ原の戦い」に勝利したのち覇権を決定的にした。

1603年に征夷大将軍となり、同年江戸に幕府を開く。これは明治維新が起こる1867年までの264年間覆されることがなかった。戦国時代の最終勝利者。

【徳川家康の辞世】

『先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う』

訳:私は先に死出の旅に出るが、今は死なずあとに残ったお前たちもいずれは同じように死ぬのだ。だからといって、お前たちを死の道連れとはしない。ここで別れよう。(訳注:殉死を諫める意味があったと言われている)

 

石田三成

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戦国時代の大名であり、豊臣家の家臣。「関ケ原の戦い」にける西軍総大将。

地方土豪の次男として生まれる。1574年頃、父、兄とともに秀吉に仕官し、自身は小姓として仕えた。秀吉が中国攻めの総司令官として中国地方に向かった時はこれに従軍する。

1582年、信長の死後、秀吉が次の天下人として台頭し始めると、三成も秀吉の側近として次第に頭角を現しはじめる。

豊臣政権では有能な官吏として活躍し、堺奉行、博多奉行、美濃国の検地などにあたり、文禄の役では朝鮮出兵の総奉行を務める。能吏としての声望は高く、豊臣五奉行の筆頭とみなされていた。

秀吉の死後、家督を継いだ秀頼を補佐し、豊臣政権と反目しはじめた徳川家と対立を深めていく。

1600年、「関ケ原の戦い」を実質的な総大将として指揮するが、敗北。捕らえられ、六条河原で斬首されのち、首は三条河原に晒された。享年41歳。

【石田三成の辞世】

『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

訳:筑摩江(地名)よ、あの芦の間に灯るかがり火のように、わが命も消えていくのだな…

 

明智光秀

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「本能寺の変」の襲撃者。信長を破り天下人になったが、わずか13日後に豊臣秀吉によって倒された。

源氏の末裔である土岐氏の支流明智家に生まれ、斉藤家や将軍足利家などを転々とする。1573年、光秀は信長の直臣となり元主である足利家との戦に従軍、その後城主となる。

その後は越後一向一揆殲滅戦、荒木村重との有岡城の戦い、武田家の甲州征伐など、織田家の主要な戦いの多くに従軍し功績を遺す。

しかし1582年、突如信長討伐の意を表し、本能寺を急襲。信長を倒し天下を狙い始めるも、わずか13日後の豊臣秀吉の「中国大返し」による急反転と、その後の「山崎の戦い」で敗北。落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺された後自害した。

【明智光秀の辞世(漢詩)】

『順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元』

訳:間違ったことはしていない 心の源に従ったまでだ 55年の夢から覚め これから新しい人生が始まるのだ。

(訳注:漢詩。明智光秀の辞世は後世の創作という説もある)

 

伊達政宗

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出羽国・陸奥国の戦国大名。隻眼であったことから、後世「独眼竜」と呼ばれた。

出羽国の大名、伊達家に生まれる。幼少時、天然痘に罹り右目を失う。一説によれば右目を失明したことを生母が忌み嫌い、それが後のお家騒動につながったとも言われている。

17歳で家督を相続すると、活発に周辺の勢力との間に戦端を開き、最上氏、芦名氏などを討伐し始める。

しかし近畿では既に豊臣秀吉による政権が安定し始めている時期であり、政宗の元には停戦命令を幾度となく届けられていた。政宗はこれを幾度となく黙殺したものの、1590年、秀吉の小田原征伐で豊臣軍団がついに目と鼻の先に来るに至り、秀吉の兵動員数を熟慮した政宗は秀吉に服属した。

1593年、文禄の役に従軍。豪華絢爛な戦装束が巷間で話題となり、これ以来派手な装いを着こなす人を指す「伊達者」という言葉が生まれた。1600年の関ケ原の戦いでは東軍の武将として参陣し、湯原城を攻略している。

戦後、江戸幕府が開かれたあとも政宗は有力な武将として生き続け、3代目将軍家光の代まで徳川家に仕えている。家康時代の英雄から話を聞くことを好んだ家光からの信は篤く、「伊達の親父殿」と呼ばれ親しまれていた。

1636年、病死。死因は食道癌と推定されている。

【伊達政宗の辞世】

『曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く』

訳:何も見えない暗闇を照らす月の光のように、己の信念を光として、先の見えない戦国の世を歩いてきたのが自分の人生だった。

 

上杉謙信

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越後国の武将。後世では「越後の虎」「軍神」などと称されている。

越後国の守護代を務めた長尾氏の出身。長尾氏の家督を継いだ後、山内上杉家の家督を譲られた。内乱続きで疲弊していた越後国を統一し、産業を振興して国を反映させた。

他国から救援を求められると秩序回復のため幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らの大名と合戦を繰り広げ続けた。

特に5回にわたる武田信玄との戦い(川中島の戦い)は有名で、後世たびたび軍記・小説などの物語の題材となった。

1577年、織田信長との戦いのさなか遠征準備中に倒れ、急死。
死因は脳溢血と推定されている。

【上杉謙信の辞世】

『極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし』

訳:私が死んだあと極楽に行くのか地獄に行くのかはわからないが、私の心は雲のかかってない月のように、一片の曇りもなく晴れやかである。

 

柴田勝家

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織田信長の筆頭家老。
秀でた武勇から「鬼柴田」と呼ばれた。

出生については謎が多く、定かではない。若くして織田信長に仕え、尾張愛知郡下社村を領した。若いころから並外れた剛力と武勇を誇り、1553年、勝家31歳のころの清州城攻めでは30騎を打ち取る武功を立てている。

その後も織田家の武将として功績を上げ続け、1580年には筆頭家老としての地位を固める。

しかし信長死去後、織田家の跡目を決める清州会議では信長の嫡孫三法師を擁立した秀吉に影響力争いで敗れ、織田家筆頭としての立場を追われてしまう。清須会議にて信長の妹「お市の方」と結婚。

その後、織田家重臣たちの権力抗争は激しさを増し、清須会議から1年後の1583年、賤ヶ岳の戦いにて美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ自刃。

【柴田勝家の辞世】

『夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』

訳:夏の夜のようにはかない人生だったが、ほととぎすよ、俺たちの生きた証を高く(雲井に)あげてくれ

(訳注:当時ほととぎすは「黄泉の国へと導く鳥」と考えられていた)

 

毛利元就

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安芸の小領主の次男として生まれる。元就が幼いころ、家中は家臣による横領などの腐敗がはびこっており、利発な少年だった元就は本家から遠ざけて育てられた。

しかも後見人に城と領地をかすめ取られ貧した元就は粗末な身なりで貧しい生活を送っており、領民から「乞食若殿」と呼ばれるほど不遇な青年時代を送った。

成年後、幼い領主幸松丸の後見人として権力の座に就くと、辣腕を振るい家中の腐敗を一掃し、お家騒動を鎮め、名目ともに領主として急速に力を蓄えていく。

自らの権力基盤を固めると、地方の有力豪族を次々に吸収し、智謀を尽くして大内家との戦い(厳島の戦い)に勝利すると、実質的な中国地方の統一を果たす。

子煩悩で教育熱心な大名としても知られており「三本の矢」の逸話は特に有名である。
齢70を過ぎた後も甲冑をつけて戦に赴くなど晩年も活発に活動していたが、75で逝去。

【毛利元就の辞世】

『友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は』

訳:今日の花見の席は友が一緒だ。私の喜びも大きいが、多くのものに愛でられる桜もまた嬉しいことだろう。昨日より桜の香りも良いような気がする。

(訳注:死の直前、花見の席で詠んだとされる)

 

足利義輝

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室町幕府第13代征夷大将軍。
剣豪、塚原卜伝から剣を学んだ「剣豪将軍」としての逸話が特に有名。

室町幕府第12代将軍足利義晴の嫡子として生まれ、11歳で征夷大将軍に就任する。

しかし時はすでに戦国時代、室町幕府の権威は落ち、将軍家も皇家や公家のように弱体化していた。

将軍家の権威を回復すべく、各地の大名間の調停に奔走し、後見という名目で将軍家を操ろうとする諸侯との政争に挑むが、幕府の権力掌握を目論んだ三好三人衆に襲撃され死去。

最期の時、剣の達人としてただ逃げるを潔しとせず、名剣の数々を畳に突き刺して、襲い来る敵兵をそれらの刀で次々と切り伏せたと伝えられる。

【足利義輝の辞世】

『五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで』

訳:この五月雨は霧なのだろうか、それとも私の涙だろうか。不如帰(ほととぎす)よ、あの雲の上、天まで我が名を広めるのだ。

 

陶 晴賢(すえ はるかた)

戦国武将、大内氏の家臣。
武勇に秀で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。

大内氏の庶流に生まれる。
大内家の家臣として主君 大内義隆に仕え、次第に頭角を現していく。

武勇に秀で、数々の合戦で活躍し「西国無双の侍大将」の異名をとる。出雲尼子家と激しい合戦を繰り広げ、大内家の武将として軍事的に辣腕を振るった。

しかし、強硬な政治姿勢と武断的思想から次第に大内家内で孤立しはじめ、遂には主君である義隆と対立。後に「大寧寺の変」と呼ばれるクーデターで義隆を打ち、大内家の事実上の支配者となる。

大内家を立て直すべく戦を重ねたが、毛利元就と対立。「謀神」と称された元就の策略に翻弄され、「厳島の戦い」では圧倒的多数であったにもかかわらず敗北。自刃した。

【陶 晴賢の辞世】

『何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に』

訳:この有様になること(死ぬこと)は、生まれたときより定められていたことだ。いまさら何を惜しみ、恨むことがあろうか。

 

大内義隆

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戦国大名。名門、大内家の当主。

中国地方全域から九州北部にかけて絶大な影響力を持つ大大名であり、稀代の文化人

幼少期より京にて育てられたため、父親を知らず乳母や女中に囲まれて育つ。

22歳で家督を継ぎ当主となるが、それまで父を知らず戦に出るのも遅かった義隆は戦国大名らしからぬ文弱な性格に育っていたと伝えられる。

教養人であり、外国から技術、学問、兵器などを導入して領内の発展を志し、また軍事の拡張を目指した。

出雲の尼子家と敵対し、激しい戦を繰り広げ、部下の猛将、陶晴賢の活躍などもありこれを一度は退けた。

しかし1542年の出雲遠征で大きな敗北を経験し、その後は戦嫌いの大名として文事に耽溺する。

義隆の文事傾倒に業を煮やした武断派の陶晴賢により、「大寧寺の変」と呼ばれるクーデターを起こされ、失脚。自刃してこの世を去った。

【大内義隆の辞世の句】

討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観

訳:討つ者も討たれる者も、人生は露のように、稲妻のように儚いものだ。

(訳注:如露亦如電は「にょろやくにょでん」、応作如是観は「おうさにょぜかん」。共に禅語。余談であるが、大寧寺の変のわずか4年後「討つ者」であった陶晴賢も戦に破れ自刃している)

 

黒田官兵衛

kuroda戦国武将。戦国三英傑に重用された名軍師として有名。

小寺家の家老の家に生まれ、21歳で小寺家家老、姫路城代。妹の敵であった赤松政秀の兵3000を300で撃退するなど、若いころから知略の武将として頭角を顕す。

織田信長、豊臣秀吉などの英傑に仕え、特に秀吉には「中国大返し」を献策するなど、智謀を持って英傑たちに仕え、時には怖れられた。

秀吉の死後は家康に仕官し、豊臣恩顧の大名の多くを徳川方に引き込むことに成功するなど、戦の内外で広く活躍する。

徳川幕府、福岡藩の藩祖。

カソリック教会に帰依したキリシタン大名としての顔もあった。

【黒田官兵衛の辞世の句】

『おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて』

訳:いまこうして最後の時を迎えるが、思い残すことは何もない。なるがままにまかせて、目の前の道を進んでいこう。

 

清水宗治

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戦国武将。切腹の作法を確立させた武将として特に有名。

備中国の豪族の家臣団の家に生まれ、長じると備前高松城の城主となる。

秀吉の中国攻めにおいて、宗治は高松城に籠城し徹底抗戦の構えを採るが、黒田官兵衛の献策である水攻めにあって城は陥落寸前となり、城兵の助命と宗治の切腹を条件に降伏する。

宗治について特に有名なのが、この切腹のエピソードである。

降伏後、宗治は水上に船を漕ぎ出し、舞を踊り、潔く腹を切り、解釈人に首を刎ねられた。

宗治以前、切腹は単なる自殺の手段のひとつであり、作法は確立していなかった。しかし宗治の切腹があまりに見事であったため、後この方法が正式な作法として流布したと言われている。

【清水宗治の辞世の句】

『浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して』

訳:さあ浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ 武士としての名を高松の苔のように永く遺しながら

 

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この記事を書いたライター

小山 晃弘
小山 晃弘

ブロガー、フリーライター。
セラヴィ」「リクナビNEXTジャーナル」「ASREAD」など、さまざまな商業Webメディアで活動中。
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