私の看取り体験 母が見せた最期の笑顔

2016/03/14

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気丈でしっかり者の母も、癌には勝てませんでした。

入退院を繰り返しながら、最期は自宅で迎えました。

最期に見せた母の笑顔が、今も忘れられません。

 

病気の問屋

母は、若い頃から「病気の問屋」と言われていました。

戦争中に肺結核を病み、戦後、結婚してから再発しました。子供の頃から胃弱でしたが、中年過ぎてから胃潰瘍と十二指腸潰瘍を発症しました。

更年期の終わりに乳癌になり、右乳房から右脇のリンパ節まで大きく切除するハルステッド法手術を受けました。そのため、右手・右腕が少し不自由になりました。術後の放射線療法のおかげで、乳癌は再発しませんでしたが、皮膚が敏感になりました。化粧品も限られ、パーマをかけることもできません。

舅・姑の介護に明け暮れる日々に、腰を痛めました。舅・姑を送った後も慢性的な腰痛に悩まされていましたが、父が倒れると、痛みも忘れて看病に全力を注ぎました。父が逝った時には、歩くのもつらいほど悪化していました。

しかし、母は勝気なしっかり者でした。

「東京大空襲を生き延びたんだ。病気ごときに負けてたまるか」

母は腰痛や胃痛に悩みながら、1年に2回、温泉旅行に行くことと孫の成長を楽しみに、陽気に快活に日々を過ごしました。

 

乳癌手術から20余年、母は喉に違和感を覚えました。

食道癌でした。乳癌手術後に受けた放射線療法の副作用です。

皮肉なことに、放射線療法と抗癌剤による化学療法の併用で、食道癌は消えました。ただ、過酷な療法だったようで、母はめっきり衰弱しました。

食道癌の後遺症で、うまく物が呑み込めなくなりました。

心筋梗塞、脳梗塞を患い、入退院を繰り返しました。ついに、シルバーカーと呼ばれる歩行補助器がなければ歩けなくなりました。

 それでも頭ははっきりしていて、身の周りのことはもちろん、料理でも裁縫でも、自分にできることは何でもしました。介助を受けることなど、考えもしませんでした。

 

自宅か、施設か、ホスピスか?

米寿を迎えた年、完治したはずの食道癌が再発しました。すでに10年経過していたので、主治医も想定外だったようです。

母の健康状態では、手術も放射線療法もできません。唯一、化学療法だけが残された道でした。それも、「治る見込みは30%」と言います。

化学療法は副作用が大きく、患者にはかなり負担をかけます。主治医は、高齢の母に化学療法を無理に勧めませんでした。むしろ、ホスピスへの入院を勧めました。

ホスピスでは積極的な治療を行いません。患者の心身の苦痛を和らげることだけに専念します。母も半分その気になりました。

しかし、妹の息子が大反対しました。息子は内科医です。

「治る見込みは30%もあるんだ。諦めてはいけない」

「30%しかない」のではなく、「30%もある」と、息子は主張するのです。

「ぼくもお祖母ちゃんを診てあげるから、化学療法を受けてほしい」

孫息子に励まされて、母は大学病院で化学療法を受けることにしました。

 副作用は初回以上に大きく、母は不快な症状に悩まされ、食欲を失い、見る間に衰弱していきました。

1日の大半をベッドで過ごすようになりました。介護用ベッドが必要になり、初めて介護保険の申請をしました。

「要介護」の認定を受け、ケアマネージャーも付きました。

その頃、私は会社に勤務していたので、母の介護は妹が一人で引き受けました。母は認知症の気配もなく、頭ははっきりしていたので、妹に迷惑をかけることを嫌がり、介護施設に入ることを考え始めました。

 この時も、息子が反対しました。

「介護施設に入ったら、衰弱する一方だ。病気に負けたくなかったら、自宅で頑張れ。最期まで、生きるために闘え」

息子は母を励ますだけではありませんでした。病院勤務の合間に母を見舞い、化学療法の副作用を和らげるために、手を尽くしました。

休日には、私と交替で母の世話をし、妹を介護から解放しました。

「介護はマラソンみたいなものだよ。途中で倒れないように、無理はしないこと。たまには、何もかも忘れて遊ぶといいよ」

母も私達も、最期まで自宅で過ごす決意を固めました。

 

天国へ行く資格ができた

母も妹も頑張りました。

化学療法の効果が出て、癌の進行が止まりました。

母は再び意欲を取り戻し、節分には恵方巻をこしらえるまでに回復しました。誕生日にはワインを少量のみ、大好きな苺ショートケーキを少し食べました。

「また歩けるようになったら、温泉に連れて行ってね」と、私にねだるようになりました。

私は帰宅すると、母の足をマッサージするのが日課でした。母は目を細めて「いい気持、いい気持」と喜びました。

初夏の夕方、私と妹が話していると、母が何とも言えないいい笑顔を見せました。子供のように無邪気な笑顔でした。

「どうしたの、お母さん?何を笑っているの?」

妹が笑いながら尋ねると、

「みんなに迷惑かけるから、照れくさいの」

母は笑ったまま応えました。

 その2日後の夜明け前、母は便秘が悪化してガスが溜まり、お腹がパンパンに膨れ上がりました。救急車を呼び、大学病院に連れて行きました。近所に住む息子も駆けつけ、同乗して付き添いました。

息子と救急医の努力も空しく、母の心臓は動きを止めました。息子が必死で心臓マッサージを続けましたが、再び動くことはありませんでした。

 母の素晴らしい笑顔は、「天国に行く資格ができた印」だそうです。

今も、母の笑顔を忘れることはできません。

この笑顔が見られたのは、妹の息子が内科医という利点もありましたが、自宅で闘病生活を続けたおかげです。介護施設やホスピスに入っていたら、この笑顔を見る機会を失っていました。

妹の息子は、今、高齢者の訪問医療を行っています。

この記事を書いたライター

潮美 瑶
潮美 瑶

人生とは「死に至る病」と申します。
生まれ落ちた時からゴールがわかっています。50歳を過ぎる頃から、ゴールが身近に感じられるようになります。
許されるものならば、できるだけ平穏にゴールを迎えたいと思っております。穏やかに、安らかに、悔いもなく、人生の幕を下ろせたら、どんなに幸せなことでしょう。見送る遺族の悲しみも、多少薄らぐことと思います。
終活情報を伝えることで、少しでも平穏にゴールを迎える役に立つならば、私自身にも大きな意味があります。