歴史に残った辞世の句【幕末編】

2016/04/22

日本独自の文学であり死生観でもある「辞世の句」。
この世に別れを告げる際に歌で心をあらわすというのは、現代に生きる我々からすると圧倒されるようでもあります。

「歴史に残った辞世の句」シリーズ第二弾は「幕末」編です。

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高杉晋作

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長州藩出身の維新志士。「奇兵隊」の創立者。

1839年、長州藩の名門、高杉家に生まれる。
8歳のとき吉田松陰の主催する松下村塾に入塾し、非凡な才覚で幼少から頭角を顕す。
その後藩命により留学し、神道無念流を稽古。1862年には藩命により幕府使節随行員として上海に渡航。当時日本よりも先進的とされていた清が植民地化されつつある実情を見分し、大きな衝撃を受ける。

徐々に尊王攘夷運動に身を投じていった高杉は、上海渡航と同年の1862年、外国公司の襲撃を同志と計画。しかしこれは事前に藩に漏れ謹慎を命じられる。その後、下関戦争において、当時の日本では全くの異例と言える身分に因らない志願兵から成る「奇兵隊」を創立。また終結後の講和会議においても彦島の租借地化を阻止するなど、文武両面で大きな活躍を遺した。

第一次長州征伐に端を発する長州藩内部の内紛では、「奇兵隊」を指揮し優勢な保守派を打ち破り藩の実験を握ることに成功。
土佐・薩摩の同志と共に薩長盟約を設立させ、第二次長州征伐では海軍総督として幕府海軍を夜襲しこれを退ける。

激動の時代を常に最前線で戦った高杉だったが、1867年、肺結核により死去。享年29歳。

【高杉晋作の辞世の句】

おもしろき こともなき世を おもしろく

訳注:訳は不要であろう。ちなみに「こともなき世を」の説と「こともなき世に」の説がある。また「すみなすものは心なりけり」の下の句が高杉を看護していた野村望東尼によってつけられたという説もある。

 

吉田松陰

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教育者。松陰の私塾「松下村塾」は明治維新で活躍する多くの人材を輩出した。

1830年、長州藩士杉百合之助の次男として生まれ、山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。
叔父、玉木文之進が開き、後に自らが引き継ぐことになる松下村塾で指導を受け、11歳の時には藩主に御前講義の出来栄えを認められるほどに成長する。

しかし1850年、松陰二十歳の時、アヘン戦争により清国が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流の時代遅れを悟り、西洋兵学を学ぶために九州・江戸へ遊学する。1854年の黒船再来航の際は、「黒船に密航してアメリカへ行き、進んだ西洋文化を学ぶ」ために小舟で旗艦ポハータン号に乗り込むも、発見され乗船を拒否される。この件は幕府に問題視され松陰は投獄、一時は死罪論まであったが、老中首座の阿部正弘などによる反対論により国元蟄居となった。

国元に戻った後は叔父の松下孫塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この小さな私塾からは伊藤博文(初代内閣総理大臣)、山縣有朋(陸軍元帥)、品川弥二郎(内務大臣)、山田顕義(司法大臣)などの後の明治政府の元勲から、高杉晋作(奇兵隊創立者)、前原一誠(萩の乱首謀者)、木戸孝允(薩長同盟の功労者)などの維新志士まで、極めて多様かつ重要な働きをした人材を輩出した。

松下村塾開設の2年後、安政の大獄に連座し斬首刑。

享年29歳、教壇に立ったのはわずか2年あまりの期間だった。

【吉田松陰の辞世の句】

(弟子に宛てて)
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

(家族に宛てて)
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん

訳(弟子宛て):もしこの身が武蔵野のどこかで朽ちることになっても、魂は永遠に滅びないであろう。

訳(家族宛て):親心は子が親を想う心より大いに優っているものだ。(私の死という)今日の知らせを聞いて、両親はどう思うだろうか。

 

土方歳三

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新選組副長。隊内に厳格な規律を敷き「鬼の副長」と称された。

1835年、多摩郡の豪農の末っ子として生まれる。端正な顔に似合わず乱暴な性格で、村では「イバラのように、触ると怪我をする子供(ガキ)」という意味をこめて「バラガキ」と呼ばれていた。

幼い頃から武士に憧れ、各地の剣術道場で修業を重ねる。

24の時、義兄弟の契りを結んでいた近藤勇(後の新選組局長)の天然理心流に入門。

28の時、天然理心流 の仲間と共に京の浪士組(身分を問わず参加できる将軍警護の組織)に参加。この浪士組が制度改変を経て、後の新選組となる。

新選組は当初、芹沢鴨らの一党が力を持っていたが、近藤・土方の天然理心流の一派は芹沢を暗殺し権力を奪取。局長に近藤、副長に土方と新選組を完全に掌握する。

京の治安維持を峻烈に維持し、また「池田屋事件」などで維新志士の積極的検挙を実行する新選組は、常に維新志士たちの恐怖と憎悪の対象であった。

1867年には農民出身者としては異例の幕臣に取り立てられる。しかし同年、徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還。王政復古の大号令が発せられ、幕府は事実上崩壊した。翌年、新政府軍と旧幕府軍の間で戊辰戦争が勃発すると、新選組を率いて幕府軍として参戦。近藤、沖田などの同志が斃れる中、鳥羽伏見、甲州勝沼、宇都宮城、壬生、会津など戊辰戦争の主要な戦いのほぼ全てに参戦した。

京から東海、江戸、会津、東北と転戦に転戦を重ね、最期は北海道函館の五稜郭で戦死。享年34。

【土方歳三の辞世の句】

よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東(あずま)の 君やまもらむ

訳:この身は北海道の島辺で朽ちるとしても、魂は東の君(徳川家)を守るために漂い続ける。

 

沖田総司

新選組一番組隊長。永倉新八、斉藤一と並び新選組最強の剣士のひとりと言われる。

陸奥の白河藩藩士の長男として生まれる。9歳のとき天然理心流に入門。若くして剣の才覚を顕し、年少者ながらも塾頭を務める。この天然理心流で、のち新選組の中核となる近藤勇・土方歳三らと同門の関係になる。

1863年、土方・近藤らの天然理心流の同志と浪士組結成に参加。芹沢派と近藤派の内紛では同門の近藤派の側で働き、芹沢の暗殺にも参加している。

近藤・土方らの新選組掌握後、一番隊隊長に昇格。一番隊は新選組のなかでも常に重要な任務を任される実戦部隊で、池田屋事件、山南敬助の脱走事件など、京時代の新選組にとって重大な事件にはほとんど参加している。

大政奉還に前後して持病の肺結核が悪化し、第一線を退く。

死の際、かくまわれていた植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうと試みるも幾度も失敗し、己の衰えを嘆いたとの逸話がある。
戊辰戦争の最中、肺結核にて病死。享年は定かではないが、20代前半と言われる。

【沖田総司の辞世の句】

動かねば 闇にへだつや 花と水

訳:今動かなければ、花と水の間は永遠に離れ離れになってしまう…。(訳注:花を自分、水を土方歳三になぞらえて、土方との別れを哀切する句であるとの説があるが、句の出典自体が確かでないという意見もある)

 

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この記事を書いたライター

小山 晃弘
小山 晃弘

ブロガー、フリーライター。
セラヴィ」「リクナビNEXTジャーナル」「ASREAD」など、さまざまな商業Webメディアで活動中。
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