歴史に残った辞世の句【文化人編】

2016/05/20

日本独自の文学であり死生観でもある「辞世の句」。
この世に別れを告げる際に歌で心をあらわすというのは、現代に生きる我々からすると圧倒されるようでもあります。

「歴史に残った辞世の句」シリーズ第三弾は「文化人」編です。

俳人、画家、貴族など、普段から文に親しみ文をしたためてきた文化人たちは、死に際してどのような言葉を遺したのでしょうか。

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辞世の句:文化人編

十返舎一九

jisei_bunka1江戸後期の戯作者。読みは「じっぺんしゃ いっく」
「東海中膝栗毛」の作者。日本ではじめて文筆のみで自活した職業作家とも言われる。

1765年、駿河国府中で町奉行、同心の子として生まれる。
長じて江戸を経て大阪に渡り、香道、浄瑠璃などを学ぶ。
25歳の時「近松与七」の名で浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』を合作。30歳で江戸に戻ると、版元(現在の書店問屋)に寄宿しながら20年以上に渡り毎年20部前後もの新作を書き続けた。

享和2年(1802年)、37歳にて「東海中膝栗毛」が大ヒット。一躍流行作家となる。
流行作家になった後は「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している。

1831年、66歳にて没。

【十返舎一九の辞世の句】

この世をば どりゃお暇に せん香と 煙と共に 灰左様なら

訳:線香が煙と共に灰になっていくように 私もこの世からお暇しましょう…

 

葛飾北斎

jisei_bunka2江戸後期の浮世絵師。化成文化を代表する一人。
浮世絵、版画、洋画、屏風絵などジャンルを問わず数多くの作品を遺した。

1760年、貧しい百姓の子として生まれる。
若いころは鏡磨師の養子、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の徒弟など居所を転々とする。18歳のとき画道を志し、浮世絵師・勝川春章の門下となり、狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学ぶ。

19歳のころ、役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。極貧の生活ではあったが、精力的に作品を制作し続ける。旺盛な創作欲は晩年まで続き、例えば代表作である「富嶽三十六景」は北斎が63歳から75歳ごろまでの高齢期に制作されたと考えられている。

1849年、90歳にて没。
死の直前、『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』(…)『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだとされる。

【葛飾北斎の辞世の句】

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

訳:人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか

 

正岡子規

jisei_bunka3明治時代の歌人。俳句・短歌の改革運動の旗手。

1867年、松山藩に生まれる。祖父は儒者の大原観山で、明治時代にあってちょんまげを結わされるような古風な家であったと言われている。

17歳で東大予備門に入学。23歳で帝大哲学科に進学するも、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行い始める。

大学中退後は新聞「日本」の記者として文芸活動を行う。1893年には「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、日本俳句の革新運動号令した。日清戦争が勃発すると、従軍記者として遼東半島に渡るも、主なる戦闘には遭遇できず早々に帰国する。

この渡航から体調を急激に崩し始め、松山に帰郷し療養を始める。
その後も俳句雑誌「ホトトギス」を創刊するなど精力的に活動し、俳句・短歌の世界に大きいく貢献した。

1902年、結核にて逝去。享年34歳。

【正岡子規の辞世の句】

・糸瓜(ヘチマ)咲て 痰のつまりし 仏かな
・痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
・をとゝひの へちまの水も 取らざりき

訳:
・(薬にと妹の植えた)糸瓜(ヘチマ)の花が咲いたけれど、喉仏に痰が絡まって息が出来ないもうだめだ
・痰が一斗も出た。糸瓜(ヘチマ)の水ももう間に合わないだろう
・おとといのヘチマの水(当時薬効があるとされた)でも(自分の痰は)取り去れないだろう
(訳注:俳句において「写実」を重要視した子規は、最期の時にあっても写実的に自分の病状を詠むことを貫いたと言われている)

 

在原業平

jisei_bunka4平安時代初期の貴族・歌人。
平城天皇の孫であり、官位は従四位上、役職は蔵人頭・右近衛権中将など。
「伊勢物語」で主人公として語られる「昔男」のモデルと見なされている。

父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王という非常に高貴な身分に生まれるが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、生誕後1年で臣籍降下し、在原朝臣姓を名乗ることとなる。

天皇の側近として仕え、仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の3代に仕えた。
歌人としても活躍し、『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している

古くから「伊勢物語」の主人公、いわゆる「昔男」と同一視されており、高貴な女性との禁断の恋や、反逆の貴公子というイメージで語られることが多く、後世の文学に絶大な影響を与えた。享年56歳。

【在原業平の辞世の句】

ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

訳:人間だれしもいつかは死出の旅に出るとは知っていたが、それが昨日今日のこととは夢にも思わなかった

 

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この記事を書いたライター

小山 晃弘
小山 晃弘

ブロガー、フリーライター。
セラヴィ」「リクナビNEXTジャーナル」「ASREAD」など、さまざまな商業Webメディアで活動中。
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